→学ぶ苦しみ I
「学ぶ」ということは「孤独」なのだ。
冷静に考えれば当たり前のことのように思う。テストは自分の学力を分かりやすいように数値化するために受けるものだし、学歴や資格も誰が見ても分かり易い「学びの結果」だ。
でも違う。私がここで述べてる学びはそういうものじゃない。
私は、今、この場所で、何を「命に刻みつけてるのだろう?」
学ぶことは本能だ。
人は学んで成長する。
学ぶことは武器だ。
人は学んで力を得る。
学ぶことは使命だ。
人は命を使って何かを為す。
私は心身ともに成長し、生き・生かす力を得て、それを使命として駆使する居場所をずっと探してる。昔からずっと孤独だった。年上と年下だとうまくいくのに、同年代とだけは話が合わず、グループに居ても自分が浮いてる気がした。陰で何て言われてるかわかったものじゃない。実際に裏切りも受けたし、いじめも受けた。大切な家族もいる。心配や応援をくれる知人・友人がいる。でもなぜだか寂しくて不安だった。贅沢な悩みだという事も、思春期という複雑な心理変化の中での一過性の悩みだったという事も頭では分かってる。それでも、思春期などとっくに過ぎた今でも、当時と同じような不安と寂しさと背中合わせだ。
人は怖い。際立つ才能や能力、特徴がない事がコンプレックスだった。それでもと努力し、得意なことはなるべく披露した。口ではすごいと言われるけど、目立ちたがり、空気が読めない、偉そうと陰で言われてる事を知っていた。出来ないとダサい、何で出来ないのと否定されることが、笑われることが、軽くみられることが怖かった。
人より出来ても、出来なくても、決して良い評価にならない。
人望がなく、前に立っても人がついてる事はなかった。陰に徹する事が出来るほど大人でも、我慢強くもなかったから、行動しては空回り、よく「イタイ」結果に終わった。
こんな子供時代だったから、誰よりもここに居て良いんだよ、居て欲しいのと偽りなく言われることに渇望していた。家族以外に理解してくれる人を探してた。あなたじゃなきゃ駄目なんだと言ってほしかった。望み望まれる居場所を何よりも欲していた。そして、それは日本ではないと根拠のない確信が昔からあった。
だから留学という選択は私の中では何ら不思議もなく、昔から言い続けてきたから家族も受け入れていた。にもかかわらず、カナダでの1年は途方もなく孤独で、一言で表すなら「試練」だった。
当たり前のことだけど、私は英語を話すのも書くのも読むのも下手だ。
こわい。怖い。恐い。
間違いも、勘違いも、取り残されるのも、馬鹿にされるのも、見下されるのも、いないものとして振る舞われるのも。
誰も私に完璧なんて望んでないのに。
こんな馬鹿みたいな疑心暗鬼、被害妄想に憑りつかれて授業以外引きこもった事もあった。
何しに来たのか、こんなものなのかと自問自答を繰り返しながら。
学ぶことが辛かった。
子どもを救いたいと思い救う術を学ぶ。でもそれは取り返しのつかなかった過去を学ぶこと。傷つけられた子ども達の最後を学ばなければならなかった。
そうして学ぶ中で自分を見失った。
「救う」事はここまで痛みを伴うのか。自分一人の孤独に打ち勝つことすらできないのに。
そして思った。
私は、この先もずっと1人でこんな思いをし続けなくてはいけないのかと。
そして気付いた。
私はこんなにも弱くて、簡単に壊れる事が出来るんだと。
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